春、桜前線の到来とともに大河津分水を舞台に
全国でも珍しい「つばめ桜まつり 分水おいらん道中」が繰り広げられます。
県内外の応募者の中から選ばれた「信濃」「桜」「分水」の3名の「おいらん役」が絢爛豪華な衣裳に身を包み、高さ15cmもの三枚歯黒塗りの高下駄を履き、独特の外八文字の歩き方を披露。
また、道中には「手古舞」「新造」「かむろ」「舞妓」など付き人を従えて、主役の「おいらん役」をより艶やかに引き立てます。
3名のおいらん役が、皆様に極上の時間をお届けいたします。
煌びやかなこのお祭りを、ぜひ楽しんでください。
「大河津分水工事」。
工事完成を祝った桜植樹。
集う観桜客への
「おいらん道中」披露は、
大河津分水への感謝の気持ち
だったのではないでしょうか。
新潟県民の悲願であった
「大河津分水工事」。
工事完成を祝った桜植樹。
集う観桜客への
「おいらん道中」披露は、
大河津分水への感謝の気持ち
だったのではないでしょうか。
新潟県民の悲願であった
「大河津分水工事」。
工事完成を祝った桜植樹。
集う観桜客への
「おいらん道中」披露は、
大河津分水への感謝の気持ち
だったのではないでしょうか。
大河津分水桜並木の歴史
越後平野をうるおし、日本海へとそそぐ日本一の大河・信濃川。
かつては暴れ川として恐れられ、洪水のたびに氾濫を繰り返し、中でも明治29年の「横田切れ」では越後平野一帯が1ヶ月にわたり浸水する大水害となりました。
衛生状態の悪化により多くの人々が命を落とし、農作物の収穫は皆無になったと伝えられています。
大河津分水の計画は江戸時代にまでさかのぼり、幾度となく請願活動が繰り返されました。そして、最初の請願から約200年後の明治40年。ついに大河津分水工事が始まったのです。
その後24年の歳月と延べ1千万人の労力、当時最新の技術を駆使して、昭和6年、大河津分水は完成しました。
そして、この世紀の大事業の完成を記念して、明治43年頃から住民が堤防に桜を植えたのが大河津分水桜並木の始まりです。
分水おいらん道中の成り立ち
分水おいらん道中は、 大正13年頃、地元の有志が、花見客向けに行った仮装行列が起源といわれています。昭和9年に分水の桜と景勝を全国的に宣伝しようと「分水路花の会」が発足、行楽客の増加を機に、昭和11年頃から賑やかに挙行されてきました。
その後間もなく戦争により中止。戦後、日本の復興も軌道に乗った昭和24年4月23日、桜並木の下で華々しく復活しました。
以来、大火と大雨による中止の他は、毎年4月に行われるようになりました。
「大河津分水」
その志を今に繋ぐ
「分水おいらん道中」
歴史は繋がり、そしてこれからも、次代に繋げてまいります。
「大河津分水」
その志を今に繋ぐ
「分水おいらん道中」
歴史は繋がり、そしてこれからも、次代に繋げてまいります。